アンマのグル・プールニマのお話(2018年7月27日)

グルプールニマは、内なる私たちのプールナトワム、つまり私たちの完全無欠さを見いだすことを思い出させるものです。私たちの心という小さな窓を通して眺めれば、自分自身や世界に対する誤った結論を下してしまうにいたります。グルは、もっとも高貴で信頼できる味方であり、『私はこの小さな存在(肉体、心、知性)ではない、私は無限であり、空のように広がっている。私は完全無欠そのものである』という真実を私たちに目覚めさせてくれます。

誰も、人間として生まれた人生があとどのくらい時間が残されているか分かりません。死は私たち皆の一歩後ろに控えています。この貴重な生は、つかのまの楽しみで無駄にしてはなりません。人として生まれた真の目的を達することができる絶好の機会が、私たちの目の前に横たわっています。私たちはこの生を正しく使い、私たちの真の本質について深く尋ね、平安と幸せの真のみなもとを理解する必要があります。

 

神は無限なる日の光のようなものです。しかしその光をもって私たちは台所の火をおこすことはできないでしょう。グルがともにいることは、弟子の中にその火を灯すために必要なマッチ棒のようなものです。

今は、私たちは好き嫌いの鎖によって縛りつけられています。もしも、それは後で乗り越えるようと言ってみても、そうはなりません。私たちが、スーツケースから指を手放して溺れる事を防ごうとしても、指が凍えていれば手を放すことはできないでしょう。それは私たちの好き嫌いも同じことです。私たちには皆、神の性質が備わっています。グルが取りさろうとするのは私たちの望ましくない面だけです。しかしそのまさに望ましくない面に私たちはきつくしがみついています。ですから私たちのうちに隠れている美しい彫像を、おもてに表すことが難しくなっています。

弟子はサンスクリット語でシシャと呼びます。シシャという言葉の意味は、教わるに適した者、訓練するに適した者という意味です。シシャは自分自身が捧げ物となる者のことです。弟子は、何でもグルのすることは弟子の向上に役に立つためだということを完全に意識していなければなりません。なかには、グルへのそのような盲目的服従は、奴隷の一種ではないかと疑問に思う人もいるかもしれません。真実は、弟子はすでに、自分自身の内に潜伏している習慣やエゴの奴隷となっているのです。グルが行うのは、その奴隷の束縛から弟子を救い出すことなのです。

グルは、推進ロケットのようなものです。私たちは、 様々な執着にがんじがらめになって、地球の重力圏内に閉じ込められていつまでもぐるぐると周回している人工衛星のようなものです。グルという推進ロケットは、この様々な鎖から私たちを解き放ってくれます。

アンマのグルプールニマのお話より抜粋(2018年7月27日、アムリタプリにて)