信仰、努力、恩寵

信仰はあるけれど、何の努力もしない人がいます。努力はするけれど、適切な信仰がない人もいます

あるボートにオールが2本ついていました。一方のオールには「信仰」、もう片方には「努力」と書かれていました。ある男性がボートを漕ごうと乗り込み「信仰」のオールだけを使って漕ごうとしました。ボートはぐるぐると回り前進しませんでした。もう一人の男性がボートに乗り「努力」のオールだけで漕ごうとしました。言うまでもなく、彼も成功しませんでした。3人目の男性がボートに乗り込み、努力と信仰、両方のオールで漕ぎ始めました。ボートはどんどん前に進んで行きました。同様に、私たちにも両方、―努力と信仰のオールが必要です。

医者の言葉を信じるだけでは病気は治りません。例えば糖尿病の患者は、薬の服用だけでなく、食事の指示にも従わなければなりません。

ある車が溝に落ちました。運転手は降りて、瞑想用の座布団をつかんで、近くの丘の頂上へ駆け上がり、蓮華座に座って祈り始めました。「神様、どうか私の車を溝から出してください!」。彼は片目を開け、車が持ち上がったか、薄目で見てみました。持ち上がっていないのが分かるともっと熱心に祈りました。空から声が響いてきました。「息子よ、祈りながら車を押してみなさい」。このように、信仰だけでは足りません。信仰は努力と結びつかねばなりません

往々にして必要な努力をせずに、こう言う人がいます「私には信仰がありますお寺に行って祈っています」。彼らがするのは、他の仕事が終わると、寺を少し訪れ、神にあらゆる不平不満を言い、寺の伝統儀式に10ルピー(15円)、寄付して家に帰ることです。それはまるで「神様、あなたは目が見えないから、明かりとしてランプの油代10ルピーをどうぞ」。もしくは「神様あなたは耳が聞こえないので、聞こえるように花火代10ルピーをどうぞ、そうすれば、私に祈願成就を授けられますね」と言わんばかりです。アンマはこれをやめるように言っているのではありません。寄付をした分で人の暮らしが助かるので、そのような喜捨は良いです。けれども、実際に必要なのはあなたのよい行いです

こう祈るべきです「神様、思いや眼差しや行いを通して、誰かを傷つけたりしない心をお与えください」。これこそが本当の祈りです。私たちはそのことに目覚めるべきです。神の恩寵はエゴのない努力に流れ込みます。無私の努力は、私たちの唯一の真の財産です

砂漠や岩の上にまかれた種が、芽を出すことはありません。私たちのハートに思いやりの水が流れ込むとき、内なる種が開き、芽を出します。私たちは、ゆだねる態度を伴った、思いやりの心を養うべきです。宇宙は思いやりを礎として存在します

すべてのものに神を見られるようになりましょう。その模範が経典にあるシビ王の自己犠牲の物語です。シビ王の左目は悲しみの涙を流しました。なぜなら、飢えた鷹に、右半身だけが与えられようとしたからです。このお話は、二者はなく、真の自己の一者のみがあるという至高の原理を示しています。他の人を自分自身と見て、愛し、奉仕しましょう。その世界観に立ち上がり、目覚めましょう!

これこそグルたちが生きた手本として教える原理なのです。すべての人が一つの体の部分部分だと見て、悲しむ人には別の人が慰めるべきです。右手が傷つけば自然に左手がさするのと同じように、自分の指で目を突いてしまっても、その指を切り落とさないのと同じように、私たちは、他の人とその欠点を許し、忘れ、許容する姿勢を持つべきです。その態度が私たちを前進させるでしょう